第33回 お江戸散策は、練馬区の石神井公園周辺から、杉並区の観泉寺・妙正寺池周辺を散策することになった。5月25日(金)絶好の散策日和に恵まれ、西武池袋線練馬高野台駅に散策愛好者12名が集合した。駅の西側を行き笹目通りに出ると、順天堂練馬病院の大きな建物が見える。その北側に木々に覆われた堂宇が見えてくる。真言宗東高野山と呼ばれ、巨大な石標に長命寺と刻まれている大寺院である。大きな南大門が、当山の威容を物語っている。南大門には、東西南北・四方を守護する四天王像が安置されている。参道を真っ直ぐ進むと堂々たる本堂(金堂)が建っていて、堂内には本尊の不動明王が鎮坐している。境内には観音堂、紀州高野山同様の奥の院、多くの石仏、石塔が並び、人々の篤い信仰を集めていることが窺い知れる。練馬区の文化財に指定されている鐘楼の周囲には、花崗岩で精緻に刻まれた十三仏が鎮座している。木々の生い茂る境内は、散歩するのも喧騒から抜け出せる恰好の場所である。長命寺の次は、元の笹目通りに出て、南に向かい、旧田中村名主の榎本家長屋門を見学した。大正期火災で焼失したが、江戸時代の民家における村役人または苗字帯刀を許された家の門形式が復元されていて興味深い。
   
 榎本家長屋門から程近い所に真言宗曼荼羅寺と号する観蔵院がある。広い境内は静謐な雰囲気につつまれ当山の薬師堂には日出薬師と呼ばれる薬師如来が安置されていて、人々の篤い信仰を得ている。その他、江戸時代には寺子屋を開いていた証しになる筆子供養塔や六地蔵像、庚申塔なども安置されている。特筆すべきは、庫裡には曼荼羅美術館が作られ、日本仏画の大家 染川英輔氏の曼荼羅図や新六道図、それにインドやネパールの仏画も展示されている。曼荼羅図とは何か? 広辞苑によると「密教における諸尊の悟りの世界を象徴するものとして、一定の方式に基づいて、諸仏・菩薩および神々を網羅して描いた図」とある。つまり、密教おいては現実世界の森羅万象ことごとくが無限の価値を持ち、そのままが聖なる曼荼羅の世界ということらしい。なにか神聖な世界に踏み込めた気分になったところを写真に収めて、次の散策地に向った。
 旧早稲田通りに出て、北に向かうと豊島橋の交差点に出た。交差点を左に折れて100m程歩くと右手に大きな石碑と山門を構えた禅定院がある。当山は真言宗智山派照光山無量寺といい、南北朝時代には創建されていた古寺と伝わる。境内にはその時代の板碑やキリシタン燈籠、大宝篋印塔、いぼ取り地蔵などが安置されている。本堂前の練馬区の名木に指定されているヒヨクヒバは鮮やかな緑に輝いており樹高7m、幹の周囲2.1mの姿は当山の特長を表している。そして、この寺院がかって教育の場であったことも、知ることができた。
  練馬区指定の名木
   再び早稲田通りに出て、東に200m程歩くと、右側に三重塔を擁して大きな山門を構えた寺院が見えてきた。曹洞宗道場寺である。室町時代、石神井一帯を統治した豊島氏の菩提寺であり、境内の堂宇として唐招提寺に模した天平様式の金堂や鎌倉様式の総檜造りの三重塔は堂々としていて圧巻である。しばしの休憩後、境内の堂宇や安土桃山様式の鐘楼を見分した後、道を隔てて隣接する三宝寺へ歩みを進めた。三宝寺は真言宗智積院派の寺院で、石神井城を落とした太田道灌によって、下石神井から現在地に移転されて来たと云う。江戸時代三代将軍家光が鷹狩りの折り、歓待して労をねぎらったことから、当山は徳川家の庇護を受けて来たと云う。境内は広く、新緑に映える木々に包まれた堂宇や鐘楼の柱に刻まれた精緻な彫刻そして勝海舟邸から移築されたという長屋門等をしばし見物したのち、当山北側にあった石神井城跡に向かった。
 石神井城は鎌倉時代後期に石神井川流域の領主として勢力を伸ばしていた豊島氏が築いた城で、豊島一族の本拠地であった。1476年に起きた関東管領上杉氏の家臣長尾景春が謀反して、乱を起した時、長尾氏に味方していた豊島一族は、扇ケ谷上杉家の主宰太田道灌に攻められ落城した。この城は中世の山城に特有の深い空濠を築き、石神井川の天然の水堀を利用した堅固な城であったことが伺える。現在、川は池となり、三宝寺池として、沼沢には沢山の植物が生い茂って、静かな、憩いの場所になっている。水辺の程よい場所を選んで、ランチタイムとして、休息を取った。
湖畔でランチタイム
 三宝寺池の池畔には小径があって恰好の散歩道になっている。対岸の畔には厳島神社の小社があり、そこには池を展望できるレストコーナーがあるので 、そこで、しばし新緑に包まれた池畔の風景を楽しんだ。気分爽快である! 池畔ウォークを続けて、三宝寺池を一回りすると、車道に出た。 「三宝寺池前」のバス停がある。時刻表によれば5~6分で阿佐ヶ谷駅行のバスがやって来る。身支度を整えて、しばし待ち、バスに乗り込み、10分ほど乗って「荻窪病院北停留所」で下車した。目的地の観泉寺は2~3分の所にある。
 今川家の菩提寺・観泉寺に入る。今川家? そう、彼の桶狭間の戦いで織田信長に打ち取られた今川義元の子孫たち歴代の墓がある寺院である。境内に入ると豪壮な堂宇に驚かされる。また、当山一帯の現在の地名は「今川」になっている。義元を継いだ今川の当主氏真は父義元の仇を討つどころか、戦を放棄したため、家臣たちが離反し、疲弊していったのである。史上では滅亡したように受け止められていたが、氏真は恥も外聞も捨て、かっては人質にしていた徳川家康を頼り、その家臣になって、江戸幕府の朝廷や公家との交渉役の奥高家として活躍するのである。戦乱の時代が終わり、天下泰平の時代になると、幼少期より見に付けた和歌、剣術、蹴鞠という特技と有職故実に精通した作法と知識が幕府の中で十分重用されたのである。その存在は子孫たちが、幕末そして明治に至るまで引き継がれ、輝き続けたのである。(ここで三宝寺の次に散策する予定だった石神井 氷川神社に行き損なったことに気が付いた。 オソマツ (^ω^))
今川義元の嫡男氏真と妻・早川どの(北条氏康娘) 今川範叙(のりのぶ)は幕末期若年寄になった人物 
 観泉寺を出てから、東に向かい、途中環状8号線を横切って1km程行った所に、妙正寺がある。日蓮宗中山法華経寺の末寺で、しずかな境内には咲き残ったサツキが「今年最期のわが美を見よ」とばかりに新緑の葉の中で薄紅を輝かせている。きれいである。幕府から庇護された御朱印寺の格式から、どこか風格を漂わせている。寺院の背後北側には湧水池・妙正寺池があり公園になっていて近隣の母子たちが沢山やって来てのどかな風景を楽しんでいる。この辺りは新緑のこのシーズンがいちばんよい光景に思えた。
この公園の次には、近くを流れる妙正寺川に沿って下り、約1時間ほどかけて鷺ノ宮神社福蔵院へと向かう予定であったが、かなり疲労を覚えたので、両所の散策を割愛し、公園近くのバス停から荻窪駅に向かい、荻窪の繁華街一角の居酒屋で懇親会となった。
お疲れ様でした!(石井義文書)
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