7月2日(月)炎天下の中であったが、第34回 お江戸散策両国橋・蔵前界隈を行った。当初、6月20日に実施する予定であったが、雨天のため日延べして、コースも変更して実施することになった。両国駅西口をスタートし、歩道に相撲の街を感じさせる力士像やちゃんこ鍋の店が並ぶ通りを抜けて進むと両国橋に着く。江戸初期、両国橋のある場所は祖法により架橋できなかったが明暦の大火で大犠牲者が出たことの対策から橋が建設されることになった。武蔵国と下総国に跨ることから両国橋と命名された。橋の手前には「ももんじや」と名のつく猪肉の料理店が目につく。下総国側は、江戸の僻地にあたり、府内側では開業できないゲテモノ屋がここでは開業されていたことを物語っているようだ。また、橋の袂には、両国橋建設に関わる技術的苦心談が案内板に書かれている。橋を渡った所一帯が江戸時代、被災避難のために大きく空地を設けられた両国広小路で後年、その空地に仮設店舗のそば屋、寿司屋などが出来て賑わったところと云う。現在も、道路幅が大きく取られて当時を伺わせる空間がある。橋から下流方面に三筋ほど入った所に川崎大師平間寺の別院・薬研掘不動尊がある。かっては、目黒、目白ともに江戸三大不動尊として、江戸町民の信仰を集めた所というが、ビルの一角に治まった寺院の体で少々、拍子抜けを感じた。しばらく御堂内の不動尊を拝顔させていただいて、神田川方面に向かった。井の頭池を水源とする神田川は江戸初期の重要な給水源として役割を果たしてきたが、神田川が隅田川に注ぐ手前に架けられた橋が柳橋である。橋の袂一帯は、舟宿が軒をならべ、川面遊覧や吉原・向島通いの通人客で賑わった所で、明治以降も政府役人や高級官僚たちが遊興した処といい、その風情は今日でも残されている。 


  葛飾北斎が描いた両国橋 (上)

  歌川広重が描いた江戸百景の両国橋 (右)
柳橋 神田川
  総武線ガードから隅田川テラスに出ることができるので、しばらくテラスを遊歩して蔵前橋に向かった。炎天下ではあるが、川風が時折そよぎ心地よさも伝わってくる。蔵前橋を出た所に首尾の松碑、道を隔てた向い側に浅草御蔵跡の碑が建っている。浅草御蔵は幕府直属の大きな米蔵庫が何棟も建っていて、120万表も収蔵していたと云う。蔵の前には請負、換金などの手数料業務を行い、高い収益を上げていた「札差」という商人たちがいて、勇躍していた。この御蔵は明暦の大火の際は、この御蔵を開き、米を開放して庶民に配ったと云う。蔵前橋通りを西に向かってゆるい坂道を下って行くと江戸通りとの交差点に出て渡ったところにカレー大使館と看板した軽食店がある。この地は、徳川11代将軍の治世に幕府直轄の天文台があったところである。日本初の精緻な全国地図を作製した伊能忠敬は門前仲町にあった自宅から、この施設に通う行き帰り歩測をつづけ、正確な歩測を体に刻んだと云う。。
 鳥越神社附近の、そば屋で昼食を取ってから、鳥越神社を参詣した。夏の風物詩で、無病息災を願う「茅野輪」が飾り付けられている。 2週間ほど前に例大祭が行われたことと炎天下でもあり、参詣客は少なかったが、境内の随所に古社の風情があって、江戸庶民の篤い信仰を受けていたことが想像できる。今年の祭にも千貫神輿みこしが繰出され、大勢の人が訪れてきて、浅草の三社まつりにも引けを取らない盛大さだったと神社の神主さんが語っていました。神社から浅草方面に向かい、松平西福寺に向かう。この寺院には、葛飾北斎の師・勝川春章の墓そして、上野の彰義隊戦争で戦死した、隊士たちが眠っている。つづいて、北に向かい、春日通りの1つ手前の路地の一角にある龍宝寺に向かう。一軒家かと思われる小さな寺には、土地の名主で、川柳を新たな芸流に育てた柄井川柳の墓と辞世「木枯らしや跡で芽を吹け 川柳」の碑が建っている。春日通りを厩橋方面に200mほど行くと右手に榧寺がある。整備されたモダンな建物である。この墓所には江戸の狂歌師・石川雅望、第37代横綱・安芸の海らの墓があり、墓参させていただいた。榧寺の南背面に、蔵前神社がある。戦後、暫くの期間、大相撲はこの神社境内で行われたが、現在は、その足跡を案内板で残すのみである。今回の散策は、炎天下ということもあり、歩足数も大幅に減らし今までで、一番少ない約、13,000歩の行程であった。 散策後は、浅草橋駅近くの居酒屋に入り、喉を潤しながら雑談して、本日を振返った。(文・石井義文)
 おつかれさまでした!!