四ケ月ぶりのお江戸散策を日の穏やかな晩秋に実施することになった。散策地は「小江戸・川越」。並みは江戸の香りがただよい、食べ物にも子どもの頃親しんだ駄菓子などが、手軽に街の至るところで嗜める。そして都心には失った風景を味わえる「魅力な街」が川越である。東上線川越駅に集合し、アカシア通りに出て、北に向かう。数分進んでから、右に折れて街の中心地1番通りを歩いていく。連雀町の交差点を過ぎた右手に熊野神社がある。縁結びや金運にご利益があることで知られる神社である。当社でそれぞれのご利益を祈念して、つぎの蓮馨寺に向う。当山は川越城主の庇護を受け、江戸幕府から葵の紋所の使用が許された格式を持っている。本堂に入る手前で人が行列してお参りしている鎮座像がある。お釈迦様の愛弟子「おびんずるさま」である。健康・長寿を願う人々は、自らが患っている所をおびんずるさまの体の同じ個所を触ると体が癒えるというのである。以前も鎌倉の寺で体験したことがあるが、病を癒えたいという信仰はいつの世も変わらないのである。当山の堂宇の長押、欄干の装飾彫刻は見事でしばし観賞させていただく。
 一番通りに戻って、蔵造り街の景観をしばし楽しみながら歩いて行く。名の知られた荻野銅鉄店、時の鐘大沢家住宅など郷愁を誘われ、しばし、立ち止まって観賞させていただく。菓子屋横丁なる名称の路地がある。まさに子供のころに親しんだグッズの宝庫である。やはり、小、中学生の子どもたちが集まってきている。微笑ましい情景である。
 左:大沢家住宅。川越だけでなく関東地方、最古の蔵造りである。明治の大火にも焼失を免れ、国の重要文化財になっている。右は現在の店内。
徳川家康は川越へ来駕した折り、 養寿院で休息している。  源義経の正妻の父。のちに、源頼朝に追い詰められる
 【菓子屋横丁】
 子どもの頃食べた駄菓子や遊び道具が沢山揃っていて大変楽しめる通りである
 
  新河岸川に架かる橋の一角に六塚稲荷神社があるので立ち寄り、御堂に彫刻された江戸の匠たちが魂を入れて彫造をしばし拝見する。橋のそばに、気の効いた店づくりの”そば処”があるのでここでランチタイムを取ることとした。
 江戸と舟運で結ぶ重要な河川。江戸期は沢山の船が行き交っていたと云う。この川は、川越城の外堀の役割も果たしていた。 
【ランチタイム】 
  昼食後、本応寺や広斉寺をしてから、中世、小田原北条勢が古河公方・関東管領軍に夜襲をかけて、激しい夜戦があったという東明寺に向かう。東明寺の一帯は川越城の北東にあたり、新河岸川に囲まれた天然の要害地に川越城があり、当時北条方が約3,000名の兵士で守っていたが、古河公方・関東管領軍は約80,000人の軍勢で城を包囲し、北条方は籠城していたが、降伏寸前の状況だったという。この勝利目前状況に古河公方・関東管領方は油断があり、小田原から援軍した北条氏康が率いる8,000人の兵で奇襲夜戦を行い歴史に残る勝利を治めたのである。現在、東明寺を訪れても、その状況はまったく想像できないが「川越夜戦跡碑」がその歴史を語っているようである。この時間になると、懸念していた天気が予報通りの雨天模様になり、ポツポツ降り出してきた。川越氷川神社に向かう。毎年10月に開催される「川越まつり」この神社の祭典である。神社はさほど大きくはないが、城主・松平信綱の時に江戸の天下祭の形式を取り入れたことから、近郷・近在を集ってのまつりなので盛大に繰り広げられるのである。
つづいて、川越城本丸御殿に進む。現在の御殿は、嘉永元年(1848)に造営したもので、16棟、1025坪の規模があったが、維新後次第に解体され、小規模になった。しかし、当時の様子は御殿内を見学すると理解できる。つづいて、御殿に隣接する場所にある三芳野神社に向かう。本殿は現在修復中で傍に近づくことが出来なかったが、すこし離れた所から一礼をさせていただいた。また、この神社は童謡「とおりゃんせ」が生れた所なので、ハーモニカの伴奏で全員でこの童謡を歌いしばし童心に返りました。つぎは、川越の人気スポット「喜多院」に向かう。徳川家康から家光までの三代に亘り徳川幕府のブレーンとして、支柱を支える提言を行い、信任厚かった大僧正天海(慈眼大師)が住職をしていた寺院である。いく度か火災に遭い、当初の伽藍は失われたが、その威容は健在で境内には、神君・家康公を祀る仙波東照宮も建立して、堂々たる威風を醸し出している。このあと、喜多院に劣らぬ佇まいを誇り、島崎藤村ゆかりの中院を散策して、本日の散策をお開きにした。 
川越城内にある三芳野神社。 童謡「通りゃんせ とおりゃんせ」の生まれたと伝わる神社
 天海僧正教訓: 気は長く 勤めは固く 色薄く 食細うして 心広かれ
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