2019年8月10日(土) JR鎌倉駅に散策愛好者8名が集いました。最初の行く先は鎌倉の古刹・覚園寺。本日は年に一度の黒地蔵尊の縁日で各地から、多くの参詣者がやって来ます。30分も歩けば、辿り着ける所であるが、駅前から、大塔宮までバスで行くことにした。車内は満員状態であったが10分ほど我慢したら大塔宮停留所に着いた。ここから徒歩で5~6分で覚園寺三門に到着。最初にお参りしたのが、鎌倉十三仏の第11番、阿閦如来像が安置されている愛染堂。願い事が深いのか、時間を掛けてお参りする人が多い。続いて、本日の主役・黒地蔵こと地蔵菩薩像へお参り。読経を聞きながら、お地蔵様の尊顔を拝見。無表情であるが、心なし微笑んでいるようにも見れた。続いて、本尊 薬師堂へ進む。堂内中央には、大きな薬師三尊座像が日光・月光両菩薩を脇座において鎮座している。堂の周囲には、鎌倉最大級の十二神将像が配置されていて、迫力満点。また、右手奥には鞘阿弥陀とも呼ばれる、阿弥陀如来坐像が祀られていました。(撮影不可)そして、天井には白龍が描かれており、足利尊氏が寄進したという直筆の棟札が打ち掛けられていました。尊氏の直筆は高い天井で離れているので、文字は読み取れなかったが、時の権力者が直接関わっていたことに、当山が並の寺ではないことを認識しました。境内には、十三仏やぐら、鎌倉十井のひとつ棟立井、鎌倉手広の名主・内海家の住宅、そして覚園寺を開山した智海心慧の墓など見所があります。  拝観・見学を終えて、覚園寺を後にして、天園ハイキングコースに入り、今泉地区の散在ケ池、へと向かいました。 (つづく)
覚園寺
 (解説) 
  真言宗泉涌寺派の寺院で山号は鷲峰山(じゅぶせん)、開山は智海心慧(ちかいしんえ)。第2代執権北条義時が建立した大倉薬師堂が前身。永仁4年(1296)第9代執権北条貞時が「元軍襲来が再び起こらぬ」ことを祈願し、寺院に改めた。奥深い境内は静寂としていて古都鎌倉の面影をよく残している。鎌倉最大の茅葺(かやぶき)の薬師堂には足利尊氏が書いた棟札がある。本尊の木造薬師三尊坐像、十二神将立像(ともに国重文)などの仏像彫刻の多彩さは鎌倉有数のものである。また黒地蔵として親しまれる木造地蔵菩薩立像(国重文)の黒地蔵縁日(8月10日、0時~12時)は鎌倉の夏を代表する宗教神事で、地蔵菩薩が、地獄に落ちた罪人にも情を示し、苦しみから助けようと獄卒に代わって火を焚いたため黒くすすけたと云われる。当日の寺はお盆を前に先祖供養のために訪れる参拝客のために午前0時から開門しており、多数の参拝者が訪れる。また、この寺院に、2月~3月にかけて咲く椿は「太郎庵」と呼ばれ、英勝寺の「侘助」とともに「鎌倉の名花」として知られている。
 
散在ケ池
(解説)
  散在ケ池(さんざがいけ)は、もともとは農業用水池の役割を果たしていましたが、今では「鎌倉湖」とも呼ばれています。この周辺2.4kmの散歩道があり、自然がそのまま残されていて、春は池の周りの桜が美しく、きれいに開花します。冬には鴨が飛んできて、池面を泳ぐ情景を観察でき、自然の癒しスポットとして愛されています。比較的なだらかでゆったり歩ける「のんびり小径」と起伏があり、「馬の背の小径」が池をぐるり廻り、途中に「パノラマの小径」散策コースがあり、池から流れる小川には「せせらぎの小径」と名付けられた水辺の散策コースもある植物や野鳥などの自然観察に人気のある所です。散在ケ池の由来は江戸時代の安政年間(1854~1859)、この地域を裏今泉と称し、すべてが今泉山称名寺の持山で、住職がこの域を大船、岩瀬、今泉の3部落に無償で分与していたため、この山を「散在の山」と呼ぶようになったと伝えられています。明治2年、当時この域を統轄していた小菅谷(戸塚区)の名主梅澤与次右エ門が岩瀬、今泉の部落有志を集め灌漑用水池(長さ70m、幅5.5mの土堰堤)を築造しました。散在の山中にある池ということから、「散在池」と称されるようになりました。
称名寺 (今泉不動)
(解説)
  称名寺(浄土宗)は、弘法大師・空海が開山し「今泉不動」の名で知られる寺院。この地は、峰口がいくつも重なる谷戸ということで、九十九(つくも)谷と呼ばれている。古くは、密教系の寺院で、八宗(はっしゅう)兼学の今泉山円宗寺と称していた。鎌倉時代には源頼朝や歴代執権北条氏が参詣に訪れたという。その後、すっかり衰微してしまっていたのを、江戸時代に入り、貞享元年(1684)江戸・深川の直誉上人が訪れ、村人の協力を得て、不動堂と阿弥陀堂を建立してから参詣者も増え、寺は再興して行った。元禄6年(1693)江戸・増上寺の貞誉大僧正から、山号・寺号を請け、「今泉山一心院称名寺」と改称して基盤が確立され、現在に至っている。通称は「今泉不動」として親しまれているが、不動堂は本堂右手の石段を登った所にある。不動堂は、空海が紫雲に包まれて、光明のさす金仙山に棲む老翁・老婆の仙人に出会いそのすすめで空海が彫ったのが不動明王像と言われ、その像が安置されている御堂である。普段は非公開であるが、毎年9月28日にはご開帳されると言う。不動堂の背後には、石造の大日如来と三十六童子像が置かれている。また、本堂前の石段を下った所に音を立てて流れる滝があるが、これは空海が、山の水が乏しいことを知り、岩肌に2つの穴を掘りつづけて祈祷したところ、2つの滝が湧き出てきた。これが今日に残る陰陽の滝(男滝と女滝)と言われ、春の桜、晩秋の紅葉のときは多くの観光客がここを訪れてくる。また、境内、本堂前には、法然上人、少年期の勢至丸像が置かれている。我が国浄土宗の開祖法然は、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば阿弥陀の力によって極楽浄土にゆくことができる」と説き、多くの人々を救ったことで知られている。
 
   
 
白山神社
(解説)
  白山神社は、もとは臨済宗今泉寺の毘沙門堂であったが、明治維新の神仏分離令で白山神社に改められたものである。祭神は、加賀の国白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神の菊理姫之命(きくりひめのみこと)で、今泉の鎮守として崇敬されています。毘沙門堂には源頼朝が上洛の折りに鞍馬寺から招来した、兜跋毘沙門天(とうばつびしゃもんてん)が安置している。この兜跋毘沙門天は怨敵退治と国土鎮護の武神として、東国の武士たちに信仰されていたもので、平安時代に彫像されたものである。その両脇侍には室町時代に作られた吉祥天立像、善貮児(ぜんにし)童子立像が安置されている。普段は公開されていないが、毎年例祭(9月18日以降の日曜日)には御開帳されている。本殿前には例年、1月8日の「オシメヨリ」と言われる大注連(おおしめ)祭で奉納されたムカデを模した大注連縄が飾り付けられ、五穀豊穣と日々の安寧が祈願されている。参道には「寛文12年(1672)」銘の庚申塔がある。また、参道入口には今泉出身で、江戸で狂歌師として人気があった酔亀亭天広丸(すいきていあめのひろまる)の歌碑がある。本殿にのぼる石段の上には臨済宗今泉寺がある。今泉寺は昭和23年(19487)、明月院に併合され、寺名は消滅したが、1982年に分離独立して、本尊如意輪観音の開眼供養をして復興した鎌倉でもっとも新しい寺院である。
   
   
 
西念寺
(解説)
 岩瀬山正定院(しょうじょういん)西念寺は、天文3年(1534)運誉光道(うんよこうどう)上人が開山したと伝わる。運誉上人は、現在も残る「開山修行窟」と呼ばれる横穴に住み、厳しい修行を行いながら念仏の布教に努めたという。で布教活動に励んだといわれる。本堂は、元亀元年(1570)に建立されてから、幾たびかの火災で焼失したが、天保7年(1836)に再建された本堂は、庫裏と一体になっている珍しい建物であった。しかし、平成5年(1993)鉄筋建造に造り変えられた。当院は日本橋の刃物商「木屋(きや)」と昵懇の関係にある。その因果は「木屋の主人が商売で相模に来た帰り暗くなり、岩瀬の村に入って宿を探したが、ないので、やむなく、西念寺に一夜の宿を願いました。その縁で、以後、木屋の主人と寺の住職は親しくなり、親交を重ねるようになりました。木屋の主人は、感謝の気持ちで西念寺に水田などを寄付して尽くしました。そして、後世までも自分たちの姿を残すようにと、自分と妻にそっくりな木像を彫らせ、生前の顔の色を保つため、命日に江戸へ持ち帰り、塗り替えられるよう首が抜けるように作らせました。現在でも、この「首抜け木像」は当山に安置されています。
  覚園寺を出てから、天園ハイキングに入って今泉地区にある散在ケ池に着きました。昼食を静かな散在ケ池畔の木陰で取って、休息しました。この池は鎌倉湖とも呼ばれ、春にはさくらの景観が素晴らしいとのことでした。しばしの間寛いでから、このあと、炎天下の車道を進んで称名寺(今泉不動)に向かいました。当山では、境内にある陰陽滝から飛び散る霧で、しばし暑さを凌いで元気を貰い、再び猛暑の中を歩みました。15分ほどで、白山神社に到着です。同神社では、江戸時代に狂歌師として名を成した、今泉出身の広丸という人物を解説板で知り、興味を持ちました。その次に向かったのが西念寺。こちらでは、ご住職奥様の御配慮を受けて、本堂の中に案内していただき日本橋木屋創業者にまつわる「首抜け木像」」を拝観させていただきました。今回の散策で思い出の残る一件でした。西念寺を散策した頃には、皆に疲労が現れてきたので、次の散策地「大長寺」は割愛としました。(大長寺に関する写真、解説は下記参照) 西念寺から100mほど歩いた所に大船駅行のバス停があったので、そこから駅に向かい、駅前の居酒屋で懇親会を開いて炎天下を歩いてカラカラに干上った喉を潤いました。 (石井義文)
大長寺
  大長寺は、第2代玉縄城主北条綱成が開基した浄土宗の寺院で、山号は亀鏡山(ききょうさん)、院号は護国院で治国安寧を祈願して天文17年(1548)に建立された。開山は後北条氏の家臣大道寺政繁の甥で高僧の感誉存貞(かんよぞんてい)である。綱成は創建にあたって広大な山林を寄進した。第4世暁誉源栄(ぎょうよげんえい)は天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めのとき、徳川家康の内命を受けて、玉縄城に籠城している北条氏勝を説得して開城させたといわれ、家康が関東に移封になったとき、50石の寄進を受けた。このとき岡本村にあった寺領も岩瀬村に移された。寺号は当初、2代綱成正室の法名・大頂院光耀(こうよう)に因んで大頂寺と称していたが、家康から「山号が亀鏡山ならば僧は大長寿であろう」と言われたことから、大長寺に改称したと伝わる。源栄住職は家康の愛妾、お愛の方の母貞宗尼の菩提寺・貞宗寺の開山僧や家康の生誕地、三河大樹寺の住職になるなど、家康から信頼されていた。境内の宝蔵には葵の紋章が付いている。徳川時代を通して、永く徳川家に庇護されてきた大長寺は大寺院の面影を今日も遺している。寺宝には、北条氏康が寄進した倶利伽羅(くりから)龍図や山越阿弥陀図などの仏画や起請文、古文書など多数遺されている。境内には、本堂左側に鐘楼、左奥には、開山・感誉存貞が祈祷して得たと伝わる吉祥水の井戸、そして墓所には北条氏綱夫人や北条一族の墓がある。
おわり